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鬼滅の刃をやっと20巻まで読んだ感想。

更新日:2020年7月17日

【鬼滅の刃を20巻まで読んだら「心の断捨離」を意識した話】




やっと「鬼滅の刃」を20巻まで読みました(13巻あたりで停滞していた)。

→まだ21巻は読んでおりません。

そして、ジャンプもチェックしていないので最終回の内容はまだ知りません。


13巻から20巻まで一気に読んだところ、「欲を捨てて生きていかなくちゃ」という不思議な境地に至ったので、その話について。

【私利私欲を鬼に昇華させて戦わせる精神の衝突】

技の名前とか呼吸とか、出てくるたびに漢字がいっぱいで覚えられないし、なんなら鬼の名前もさっぱり覚えられないので「ざっくりとした印象の感想」ですが。

戦うシーンは迫力があって、効果線が炸裂していて血まみれですごいです。

でもその真髄は「強さ」のぶつかり合いではなくて、鬼のこころと人間のこころの衝突。どちらの精神力が勝るかの力比べ。

鬼殺隊の人たちは「情けは人の為ならず」精神で、つまり「人のためにいいことをすると、いつか自分に返ってくるよ」という考えをベースに協力しながら鬼を倒す。

逆に鬼は、「自分がいかに強くなるか。自分がどう認められるか」に囚われ、その結果「認められたい」という思いだけをより抜いて特殊な力を得た。

「人のために戦う」人間と、「自分のために戦う」鬼が、ぶつかり合う結果「人のために頑張った子たちが勝つ」という正義の方程式へ導くかのように見えるこの感じ。

私は個人的に、勧善懲悪的なものは「本当の世ではありえない」と思っている節があります。 多分、「人は多角的な生き物で、どんなに“悪”のレッテルを貼られる人であっても、だれかにとっては大切な子どもだったり、親だったり、すれ違った瞬間に親切にしてくれた思い出の人だったり。他の誰かのかけがえのない人」である可能性が高いからです。 ああ、だから鬼にするのか、と。

鬼なら、「人間の弱さが生み出した邪悪なこころ」を“悪”へと昇華できる。勧善懲悪のベースが成り立つ。 だけど鬼になってもなお、最後に「人の心」をフッと取り戻して死んでいく姿が描かれていたりもして、本当の意味で彼らが“悪”ではないと表現するストーリーがうまいな、と思いました。



【鬼の中できっと特別なひと】


鬼の中で、おそらく別格扱いに見えたのは上弦の参の「猗窩座(あかざ)」です。

コミックスの空きスペースに「ページが増えるから本編に入らなかったけど、猗窩座が鬼になる前の人間時代に起こった物語はこんな感じ」とみっちり書き込まれた手書き文字による解説が濃密でした。

鬼になるような人たちは恵まれない人生だった場合が多く。 大切な人を亡くしながら、それでも生き続けた彼を救った武術家の父と娘。彼らと家族になる幸せを手にした猗窩座が、幸せの頂点から地獄の入り口までたった1日で落下して、その先に「鬼」という進路を見つけた顛末。

でも、鬼になってからも、彼だけは女の子を絶対に殺さなかった。食べなかった。 作者の愛が深海のように深い。

そういう「大本命」の鬼と、脇役ふうの鬼が混ざり合う物語のコントラストも読者を惹きつけるのでしょう。おそらく。


【闘志のくだりからモンシロチョウの捕捉を思う】


その「猗窩座」との対戦で、主人公の炭治郎と水柱の義勇が力を合わせて戦うシーン。

炭治郎は、自分が呼吸をする前から、猗窩座に技の内容まで見透かされていると悟ります。どんな技を繰り出しても届かない。最終的には「闘志を持って挑むと、その闘志に気づかれて阻止される」という精神の局地みたいなところにたどり着く。

つまりは、闘志をかき消して、存在感すら無になって相手に挑むと「突然出てきた技!」として猗窩座にダメージを与えることができるとわかるのです。

ここから、私は数日前のモンシロチョウとの対戦を思い出します(突然)。

我が家の畑に毎日何匹もモンシロチョウがやってきて、野菜に卵を産みつけていくのです。幼虫たちは葉っぱを丸裸にしちゃうし、フンもするし、いいことありません。もちろん、彼らは彼らで精一杯生きているだけで、何も悪いことはありません。

だけど、「野菜を食べるために育てている人間」の私たちからは、ちょっと他に行ってください的な存在。

そこで、水やりをしている時、モンシロチョウを見つけた私に意地悪な心が芽生えました。 「このホースの水を“ジェット”に設定して、モンシロチョウにかけてみよう(邪悪)」 そう思ってホースの先の設定部分をクルンと変えようと思った瞬間、モンシロチョウがザーッと逃げた。 「!!」 モンシロチョウと何戦も対戦を重ねた主人曰く、「彼らは殺気を即座に感じ取る」らしいです。なんと! もし捕捉したいのなら、フフフンと鼻歌でも歌いながら、そんなそぶり一瞬も見せないまま近づいて1秒でやらないといけないらしい。 つまり、猗窩座との対戦は、モンシロチョウの対戦の極意と同じです(そんなわけあるか!)。

【なので心の断捨離にたどり着いた】

「情けは人の為ならず」精神で、人のために生き続けるとそのうち自分が幸せになるとか。 闘志は隠し続けて、本当に必要なときだけ牙を剥け、とか。

そういう精神論を子どもたちに無意識のうちに叩き込むこの漫画。

20巻まで読んだら、「私利私欲を捨てて、人のためにいいことって何かな? と考えて生きることいいことあるのかしら」。そんな思いが胸に湧いてきてしまいました。

フラッシュバックするのは25歳くらいの頃、JR金山駅の構内で手相見をしていたおじちゃんに手相を見てもらった時(金山の父と呼ばれる人がいるから行ってみて、と当時取材でお世話になったマダムから言われて、私は言われたことは100パーセントやり抜く謎の誠実さを持っているので本当に行った)。

「右手の薬指下のココね、財産線て言うんだけど。あなた細かい線がいっぱいあるねえ。太い線1本にまとまると財産が増えるんだよ。そうだね、まず欲を捨てるほうがいいね。欲を捨てるとこの線がまとまるよ」

金山の父にそう言われたことはよく覚えています。

さて長い年月が経ちましたが。

私の財産線、いまだに細かいのがたくさんありますよ!!

【最後は少女漫画好きが選ぶイケメン】

「鬼滅の刃」の柱の中で、少女漫画好き人間のセンサーがきらめいたのは音柱の宇髄天元(うずいてんげん)さんでした。

3人の嫁をめっちゃ大事にする姿勢、音柱の正装じゃない時のただの着物姿が一番カッコよかった印象などから、なんとなく。

でも義勇さんでもいいです(でもいいですって言う失礼さ)。 義勇さんとの対話のシーンで、炭治郎が「蕎麦の大食い対決」を持ちかけたのも良いネタでした。 そんなこんなで。

面白かったけど、めちゃくちゃ体力と精神力を使いました。




ちなみにイラストは、コミックスの表紙や、アニメの1コマを模写してみたものです。

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