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昔の旅4:たとえば東欧の列車について

これは私自身が2008年の4月、ハンガリーとチェコを旅した記憶の記録です。当時使っていたパソコンのHDDの記録を、「古いデータと写真を全部入れ込んでいる」大容量のHDDの奥底から発見しました。

社会主義国だった東欧諸国がEUに加盟して数年、急激に資本主義化する国々を旅しました。素朴な可愛さに憧れて訪れたそこには、理想と少し違う朗らかな世界がありました。

為替レートなどは当時のものです。



【東欧旅行日記:たとえば列車について】2008年の記録



旅のプラン名からして「列車で行く」というフレーズがついていて、国と国の間を列車で移動するのが今回の旅の醍醐味の一つでした。


そこで、ブダペストからスロバキアのブラチスラバを経由して、プラハまで実に7時間強の列車の旅を敢行。


ところがですね。


まずブダペストからプラハへ移動する予定の4/18、懸念していたブダペストの市内ストライキがぼっ発。トラムもバスもメトロもぜんぶお休み。せっかく3日間乗り放題のブダペストカードを買ったのに使えず仕舞いでしたが、運良く宿泊していたホテルが国際列車が発車する東駅まで徒歩15分でしたので、歩いていくことになりました。


タクシーは、そもそもぼったくりが多いので乗らない方がいいらしく、旅では一度も使いませんでした。それに加え、ストの日はタクシーを呼んでも1時間以上待たねばならないそうです。


しかしこれはトラブルの序章に過ぎませんでした。


4/18の午前中、ブダペストの自由市場まで30分歩いていき、途中古本屋なんか立ち寄りつつ、メトロを使わず街を歩くのも楽しいもんだと思って得した気分でした。市場にはソーセージや肉やパプリカや果物や野菜が並び、地下にはスーパーもあり、とても楽しく買い物を。


列車で食べる予定のイチゴを買って(安かった!)、ホテルに戻ってランチをして、東駅まで歩いて無事乗り込み完了! 席の予約をしておかなかったので空いているところに座りましたが、満席になると本気で座れないのでシートの予約はしておく方がいいですね。ちなみに、予約席には車掌さんが一つ一つ予約カードを貼っていくようで、それがある席には途中で人が乗ってきてしまいます。



←旅のおとものイチゴ








とはいえ、ブダペストから北上し、だんだん景色が田舎になり、それでも緑の合間に立つ家々のあのビビッドな色合い(今回いちいち感動したことの一つがこれ。家がかわいい! 田舎にあっても、壁が真ッピンクとか黄色とかオレンジとかの家がたくさんあって、とても刺激的でした)に目を奪われることがたびたび。


スロバキアに近付くにつれて景色は緑一色になり、菜の花やリンゴの木の白い花に癒されつつ、イチゴをつまみました。


ブラチスラバに着くと、途端に大勢の乗客が乗り込んできました。


最終的にプラハまで乗り続けた人が多かったのと、プラハでメトロのツーリストチケットを買うところまで一緒だったので、あの人たちも観光のために列車に乗ったのだと思います。金曜日だったので土日を使って旅行するのでしょう。


…が、この4/18の午後4時15分(現地と日本の時差はサマータイム時で7時間。日本時間は午後11時15分)、発車しようとした列車は、交通事故の経験がまったくないわたしにとって、想像以上というか未経験の大衝撃とともに停止しました。


少し離れた席に座っていた男性が、手に持っていたカップのビールを3/4をこぼしてなくすほどの衝撃。


一体何が起こったの?

今のは何?


突然よぎる不安をよそに、周りの乗客は「こんなのよくあること」という顔をして平気でおしゃべり。それが余計不安にさせます。


車内放送が流れ、スロバキア語がそもそもまったく分からないのと、英語の放送はやけになまっていて聞き取れないのとで、少しずつ乗客が荷物を残したまま離れていくのを眺めていました。


すると、わたしたちが状況を読めていないのを察してくれた女性が声をかけてくれました。「出発は1時間遅れるわよ」、そして彼女は列車を降りていきます。


「何があったのか見て来よう」


同行者が言い、わたしたちもスーツケースを置いたまま車外へ。


乗車する時に、英語がペラペラの人を含む日本人集団がいたのを見ていたので、彼らを探して状況を把握しようというのが狙いでした。が、車両を見れども見れども日本人は見つかりません。


そして、途中で包帯をぐるぐる巻きにしたおばあちゃんとか、医療スタッフに足を診てもらっている女性とか、先ほどの衝撃で怪我をした人を目撃。立っていなくて本当に良かった、いわんや食堂車で食事などしていなくて本当に良かったと思いつつ、最後尾車両に近付くうちに怪我をする人を撮影するテレビ局のカメラまで登場。


なにごとなにごと。


と最後尾に辿りつくと、一番最後から二番目の車両(それは1等車両で、わたしたちの乗る2等よりも運賃が高い)がホームに激突し、車両の一部が破損していたのです。


列車事故か!


すぐにKEEP OUTのテープが貼られ、そこへは近付けなくなりましたが、出発は100分後まで遅れるという表示が。


←立ち入り禁止ゾーン

何人もの人が(たぶん近場へ行くための人)列車を降りて2番ホームへ移動して電車を乗り換え、プラハまで行く人だけが列車に残りました。わたしたちも車両へ戻り、ひたすらに出発を待ちます。




その時の、あの不安な気持ちは言い様がありません。 同行者がとても冷静に「何が起こったか分からないから見て来よう」と促してくれたり、「いざとなったらスロバキア大使館に電話してみよう」「スロバキアで一泊かも」など、これからのことを相談できたりしたので落ち着きましたが、ひとりだったら不安すぎて気持ち悪くなっていたかもしれません。


というのはやっぱり言葉が分からないからというのが大きいかも。


でも、もう一つ安心できる要素がありました。


それは、4人がけのシートに居合わせていたドイツ人男性が、衝撃が起こってから出発までずーっと平静を保っていたことです。


わたしはこっそりローマイヤー君と心の中で呼んでいました。


ドイツ人だから(ばかじゃないの)。


ローマイヤー君は20代か30代くらいで、からだがとても大きくて、髪は短く黒く、白いシャツに黒いパンツのビジネスマンライクなかっこうをして、いつも口角を上げていました(にっとした表情)。そして、衝撃があってからも身動き一つせず、事態を見守り、おろおろするわたしたちには目もくれず、本を開いたり外を見たりして過ごしていました。


同じく4人がけのシートに同席していた、スロバキア人の女性(彼女を見送りに来ていたパパと息子が、帰れなくて困っていた)に、「can you speak english? what's happened?」そう尋ねたのは事故からゆうに70分後。


今頃かよ!


わたしは心のなかで叫びましたが、それによって女性が「列車事故よ。あと10分で出発するわ」と答えたのを聞いて、とっても安心したのでした。100分遅れのはずが、少し早まって80分遅れ。


「顔色を変えないで賞」をあげたい。


そんなローマイヤ君ですが(そもそも最初は何人か分からず、切符を見に来た車掌さんがわたしたちには「サンキュー」、彼には「ダンケ」と言ったのでドイツ人だと予想しただけ)、興味がないのかと思えば、わたしたちが景色を見てキャッキャ言うたびに窓の外へ目をやり、撮った写真を見てはあれこれ言うのを気にしてこちらを伺っていたので、実は興味があったのかもしれません。


想像ですけど。


そんなこんなで、ブダペストからプラハまでは9時間もかかってしまいました。 日本からヘルシンキまでの飛行時間と同じです。距離はものすごく近いのに。


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