腑に落ちた気持ち。
- primarytomoko
- 2021年9月2日
- 読了時間: 3分

この「腑に落ちた感」が消えていく前にちょっと言葉にしておきたい気持ちがあって。
古民家を移築した、田舎の外れの、目の前に田んぼが広がる民芸のお店にお邪魔したのです。
民芸って、なんでしょうね。
…というほど無知で無学な私は、店主との対話(聞き手は3人もいました)の中で、その時はあまりにも難しいことを言うのでフワッとしてよくわからなかったんですが。
後からすごーく心に響いてきたことがあって。
「私は小中と不登校で義務教育も満足に受けていません。でも人文にとても興味があって、独学で本を読んで学びました。
民芸に傾倒して、柳宗悦だとかいろいろな人の本を読み、それでも日常では酒屋の店長をやって生きていました。そんな時東日本大震災があって。自分はこのまま生きていていいのか、と人生を省みたんです。ちょうど結婚したタイミングとも重なります」
そこから仕事を辞め、突然築150年の古民家を移築し、大好きな民芸(それも人柄まで好きな少数の作家だけの作品を隅から隅まで取り扱う系)を、その価値をわかってくれる人だけに売る暮らしを始めたそう。店と住居は一体化していて、友達の大工と7年がかりでリノベーションを繰り返し、今やっと完成系に近づいたというその住まいは日常からかけ離れた趣があります。
「できるだけ人の視線が届かない場所に店を開き、世間から隔離された環境で暮らして、その姿をわざわざ見つけてくれる人だけに売りたい」
という、とてもとてもわかりにくいけれども、とてもとても魅力的な人生を送っていらっしゃった。
そしてこう言うのです。「私がここで店をやって、こういう暮らしをして、それに共感したり、共鳴して近所に引っ越してきてくれる人もいる。でもそれさえもどうでもいい。私は私の気に入った暮らしをしているだけです」
雷が脳天に落ちるのです。
ああ、それだ。
○ ○
【私の不甲斐なさへの理由づけ】
私は取材をするような仕事を選んできたけれど、基本的にはコミュニケーションに難があり、「ひとりが好き」。単独で完結する仕事が好きだし、単独で完結する趣味が好きだし、友達と3人でショッピングをしていてもいつの間にか一人でウロウロしている系。
だから「コミュニティを作ろう」と言うときに、やっぱりうまく立ち回れないし、指示は出せないし、なんだか浮いて行く自分に不甲斐なさを感じてしまう。
けれど、「それさえもどうでもいい」と言い切る姿勢に、すごく共鳴してしまいました(その共鳴さえいらんって言われそうだけど)。
いつも、ショップ取材といえば「この商品の値段は」とか「このメニューのこだわりポイントは」とか、原稿に直結することだけを聞いて、その前後にふわっと香るコンセプト的なものをまとめて行く感じになりますが。
そういう現実的なことを聞く時間さえなくなるほど、「対話を買う」「対話そのものを体感する」経験をして、なんだかとても幸せな気持ちになりました。
この対話の記念というか、ここを訪れて楽しかった記憶を持ち帰りたくて、お茶を出していただいたときに使われた、手吹きガラスのコップを買って帰りました。
もしかすると「民芸」というものは、対話を通して人と出会い、その人をいいなと思い、その人が作ったり売ったりしているものを欲しいと感じて、それを買う(相手との関係性を買う)ことが始まりなのかもしれません。
そういうあれこれは、まさに、一滴も原稿に入らないので、今、この思いを書き留めておきたかった。
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